音楽、しかもジャズを本で楽しむ
事情があって丸2ヶ月も本が読めない生活をしていたのだけど
ようやく今月から元気に本が読めるようになりました。
ということで最初に手に取ったのがこちら。
2004年に出ている本。キンドル版で読みました。
マイルス・デイヴィスもジョン・コルトレーンもジャズの大御所です。
彼らの演奏をリアルタイムで聴いていた植草甚一さんの音楽エッセイ集。
音楽、エッセイ、この素敵が一つになってるという素敵すぎる一冊。
ジャズに興味あるけどどこから始めたら分からない!という人は
YouTubeとかでこのお二人の音楽を聞いてみるところから始めたらどうだろう?
わたしはこの本に出てきた他のミュージシャンの音楽もチェックしてみようと思ってる。
とはいえジャズも幅が広くて好き嫌いがあると思うから
この二人がジャズを代表するというわけでは全くなくて。。
サンディエゴに関していうとSan Diego Jazz Radio 88.3FMがおすすめ。
ウェブサイトからも聴ける。
おそらくいろんなジャズが紹介されているんではなかろうか。
これをいつも愛車の中で聴いてるんだけどいい気分になること間違いなし。
この本に出会ったきっかけ
わたしはサルサだけじゃなくてジャズもけっこう好きなのだけど
サルサほど詳しいわけじゃない。
だからこそもっと知りたいなと思っていた矢先に
偶然にツイッターで知ったのがこの本だったのでした。
わたしよりも年配の方だと思うのですが
その方が
ツイッターもFBもだけど
わたしがいまだに使ってる主な理由って
こういう偶然に知りたい情報が手に入るって部分が大きい。
ちなみにツイッターで得たもう一つの有益な情報は
コストコで売ってるこのソーセージが日本人好みの味でおすすめってこと。
しかも無添加というのも嬉しい。ぜひお試しあれ♡
印象に残っているくだり
- ジャズを聴きながらバナナが潜在意識に浮かんだというサルトル。サルトルがはじめてニューヨークに出かけグリニッチ・ヴィレッジのナイトクラブで、はじめてジャ ズらしいナマの演奏を聴いた一九四七年のことだったが、このときの印象を、つぎのように書いている。「ジャズはサルサとおんなじだ。皮をむいたバナナのようにそのときすぐに食べてしまわなければならない」
- ──ジャズが演奏されている。みんなが熱中して聴いている。その人たちは夢なんか見てはいないだろう。ショパンは夢を見さすかもしれないが、ジャズ はちがうんだ。ジャズはとりこにしてしまい、そのなかから離さない。ほかのことは考えさせないよ うにしてしまう。ジャズはドライで兇暴で無慈悲なものだ。それが黒人奴隷の百年前からの悲しい歌 だと考えるのは間違っているし、機械にたたきのめされた白人たちにとっての悲しい夢だと考えられるのも間違っている。ごらん! トランペットを吹いている太った男が、からだを動かしながら、ありったけの息をしぼりだしているだろう。ピアニストは情け容赦もなく叩きまくっているではないか。ベーシストの絃のはじきかたを見ていても、まるでそれに苦痛をあたえているような気持になる。そうだ、彼らはこうして君たちの最良の個所めがけて話しかけようとし、そのため一所懸命になっているのだ。
- 画家ドラクロアはつぎのように説明したことがあった。『なんでもやってしまえる。それが才能の定義だ。ところが天才になると、彼に向いたことしかやれない』つまりマイルスは、どんなサウンドでも出せるという才能の持ち主ではなく、<その純粋さにおいて文句のつけようがない>サウンドを生み出すことしかできなかった。この純粋なサウンドは、刺すように鋭く、孤児のように頼りにするものがなく、せん動音を伴わないで生まれてくる。
- 『ある人にとって、芸術は、ごく単純なことがらを複雑にしてみせることなんだ』とコクトーはいった、『だが、ぼくたちにとっては、非常に複雑化したものを単純なかたちにするのが芸術なんだ』 マイルス・デイヴィスの最良の時代には、このような定義があてはまるのであって、その特色が単純性にあることはクドクド説明する必要もないであろう。
今日はCharlie Parkerの音楽を聴きながらこれを書いてます。
この人に影響を受けていないジャズミュージシャンはいないと言われてる大御所。